1927年 昭和2年 0歳 4月10日、東京、銀座6丁目(当時は尾張町2丁目)銀座通りに面した商家(ヨシノヤ靴店)の2階にて、矢代乙吉、園子の長男として誕生。
1934年 昭和9年 7歳 日比谷公園内にある日比谷幼稚園を経て、銀座泰明小学校に入学。この頃より女中さんに連れられて、銀座界隈の劇場の芝居を見始める。幼な心に強烈な印象を与えたのは、松竹少女歌劇、歌舞伎座公演「真夏の夜の夢」。(シェークスピア作、青山杉作演出)
1939年 昭和14年 12歳 小学校の成績は50人中4番。受験勉強のため、赤坂伝馬町(東宮御所近く)のヨシノヤ創業者であった祖父の家に預けられることもあり、赤坂見附よりちんちん電車で、泰明小学校に通う。
1940年 昭和15年 13歳 東京府立五中(現都立小石川高校)に入学。
1943年 昭和18年 16歳 暇さえあれば図書館にこもり、芥川龍之介、横光利一、真山青果など読みあさる。校友会誌「開拓」を1年上の詩人中村稔らと編集。「北村透谷に関するエッセイ」などを発表。泰明小学校同窓会幹事を引き受け、母校に集まり親睦会と称し、コーラスや芝居を行う。この時、菊池寛「屋上の狂人」の演出をする。
1944年 昭和19年 17歳 中学を4年で終了し、兵隊に取られるより1年でも好きなことをして生きたいと、5年卒業を待たずに、第二早稲田高等学院(旧制高校)入学。10月、国民新劇場(築地小劇場)にて、文学座公演、飯沢匡作「鳥獣合戦」で初めて新劇を観て感動する。その年にできた、俳優座俳優講習会の講習生となり、青山杉作、千田是也の講義に影響を受け、演劇を志すことを決意、早稲田には偽の診断書を提出し休学、俳優座研究生となる。
1945年 昭和20年 18歳 俳優座移動演劇団、芙蓉隊に参加。主として関東地方の農村を巡演。食糧増産劇「みんな手を貸せ、芋が行く」の主役、縫いぐるみの芋役。菊池寛作「父帰る」の新二郎役などを演じる。共演者の東野英治郎、岸輝子らの教えを受ける。しかし、自意識過剰で俳優は断念。8月、久々に学生に戻り、三鷹の飛行機工場の勤労動員先で終戦を迎える。空襲により銀座の生家消失、青山北町に家族と共に転居。
1946年 昭和21年 19歳 俳優座文芸部員となり、演出部に入りゴーゴリー「検察官」などの裏方として働く。五中時代の友人、出英利のつてで、心酔していた太宰治に会う機会を得る。東大在学中の三島由紀夫を知り、歌舞伎見物などに一緒に通う。
1947年 昭和22年 20歳 習作戯曲『木偶人形』脱稿、紛失。早稲田大学仏文科(旧制)に入学。フランスのジロドゥ、アヌイ、モリエール、アシャールなどに関心を持つ。当時盛んだった学生演劇には興味なく、ひたすら仏文学、仏演劇の講義のみ出席。俳優座公演、真船豊作「中橋公館」に人手が足りず出演するはずだったが、稽古途中で肺浸潤になり木村功が代役。
1948年 昭和23年 21歳 太宰治入水10日前、山崎富栄宅にて「斜陽」の一部を色紙に書いてもらう。モリエール作「女学者」を翻訳、俳優座公演として、日本橋三越劇場で上演される。演出、青山杉作、出演、東山千栄子、東野英治郎ら。俳優座創作劇研究会企画委員となり、三島由紀夫に処女戯曲を依頼する。
1949年 昭和24年 22歳

文学座時代 演出家戌井市郎氏と

芥川比呂志、中村真一郎を知る。12月、芥川の勧めで俳優座から、文学座文芸部に移籍。岸田国士、岩田豊雄に師事。
1950年 昭和25年 23歳 早大仏文科卒業。卒業論文「ジャン・ジロドゥ作「テッサ」の研究」。前年に脱稿していた処女戯曲『働蜂』を「近代文学」に発表。9月文学座アトリエにて、ジロドゥ作「クック船長航海異聞」を芥川比呂志と共に演出。11月、文学座アトリエ公演、福田恒存作「堅塁奪取」を処女演出。岸田国士主唱の、文学立体化運動として生まれた[雲の会]の一員となる。しかし、肺結核となり慶応病院に入院。
1951年 昭和26年 24歳 入院中、戯曲『菜の花畑』を[悲劇喜劇]5月号に発表。
1952年 昭和27年 25歳 3月、肺手術を受け、退院。同病であった加藤道夫に誘われ、静養のため軽井沢追分にある、油屋旅館で一夏過ごす。以後、毎年夏は軽井沢に滞在する。12月、作、演出『狐憑』(中島敦原作)を文学座アトリエ公演として、処女上演。
1953年 昭和28年 26歳 文学座アトリエ活動に本腰を入れる。加藤道夫に勧められ、カトリックに関心を抱くようになるが、12月加藤自殺。加藤の告別式で遠藤周作と会う。
1954年 昭和29年 27歳

文学座アトリエ公演 『城館』

加藤に励まされ完成していた厳密な意味での処女戯曲『城館』([新劇]創刊号所載)を1-2月、文学座アトリエ公演として、自ら演出、初演。同じくアトリエで『雅歌』([三田文学]10月号所載)を演出。
1955年 昭和30年 28歳

『壁画』舞台写真

『壁画』
稽古場演出風景

『壁画』出版記年会

『壁画』、[群像]3月号に発表。『絵姿女房』「新劇」4月号発表。6月、『壁画』が、劇団新人会公演として初演、自ら演出する。劇作派を中心とする雑誌「新劇」編集同人に加わる。
1956年 昭和31年 29歳

『絵姿女房』

1、2月、『絵姿女房』が、文学座アトリエ公演として初演される。演出、戌井市郎。4、5月、文学座アトリエ公演、ジロドウ作「アポロ出陣す」(原題「カンティック・デ・カンティック」安堂信也と共訳、白水社刊「ジロドゥ戯曲全集5」所収)を演出。5月、虻蜂座公演「流行っ子の技術」(キノトール作)を演出。虻蜂座は森繁久弥、三木のり平、フランキー堺らの若手喜劇集団。6、7月『象と簪』が青年座公演として初演される。10月、文化放送のために放送詩劇『海の陽炎』を書き下ろす。11月戯曲『蝙蝠』を「新劇」に発表。この年、演劇に関心を持つ芸術家の集まり[横の会]発足。
1957年 昭和32年 30歳

「ブリタニキュス」

文学座「守銭奴」
舞台写真

1月、『おたか祝言』が新派公演として明治座で上演される。演出、藤間勘十郎。3、4月、文学座公演、ラシーヌ作「ブリタニキュス」を演出。丸の内第一生命ホールにおいて初演。「新劇」3月号に『若い演出家の走り書き』(エッセイ)を発表。4月岩田豊雄夫妻の媒酌により、聖イグナチオ教会にて山本和子と結婚。11、12月、文学座アトリエ公開公演、神田一ツ橋講堂において、モリエール作「守銭奴」を、安堂信也と共に演出。11月『絵姿女房』が、武智鉄二の能形式の前衛的演出により上演される。
1958年 昭和33年 31歳 4〜6月『国選爺』(近松門左衛門原作)が、文学座公演として初演。6月、宝塚歌劇団のために、ミュージカルプレイ『白夜に帰る』(イプセン作、「ペールギュント」より)を書き下ろす。12月、バラード『12月のあいつ』を発表。林光作曲、宮城まり子出演で、東京サンケイホールで初演。この年、日本初の本格的アニメーション映画、東映株式会社、総天然色長編漫画映画「白蛇伝」完成、台詞構成担当する。
1959年 昭和34年 32歳

ラジオドラマ「絵姿女房」演出武智鉄二氏らとスタジオで

文学座公演「黄色と桃色の夕方」舞台写真

4月、長女朝子誕生。9〜11月、『黄色と桃色の夕方』が文学座公演として初演。
1960年 昭和35年 33歳

劇団四季「地図のない旅」舞台写真

3月、次女友子誕生。7月、宝塚歌劇団にミュージカルプレイ『ローズ・ダムール』を書き下ろす。11、12月、『地図のない旅』が、劇団四季公演として、第一生命ホールにて初演される。演出、浅利慶太。
1961年 昭和36年 34歳

昭和30年代執筆中

1月、近松門左衛門作『鑓の権三重帷子』の現代語訳を脱稿。5月『絵姿女房』がオペラ化され、大阪フェスティバルホールで上演、演出、観世栄夫。11月、イタリア賞参加作品として、井上靖作「天平の甍」を、NHK放送劇として劇化。英、仏語に翻訳される。
1962年 昭和37年 35歳 5月、森繁劇団のために、遠藤周作の小説『おバカさん』を劇化、演出も担当。明治座にて上演。8、9月、『黒の悲劇』が文学座公演として、第一生命ホールにて初演される。この年、肺結核再発、入院。再び肺手術。予定されていたアメリカ留学を断念。
1963年 昭和38年 36歳

パーティの司会をする三島由紀夫氏

2月、森繁劇団のために、松本清張の小説『坂道の家』を劇化。NHK委嘱作品、新作文楽『嘆き川』を脱稿。大阪サンケイホールにて、野沢松之輔作曲により、桐竹紋十郎、吉田玉男らの出演で上演。11月、三島由紀夫作「喜びの琴」事件を契機に、文学座を退座する。
1964年 昭和39年 37歳

青年座公演「象と簪」舞台写真

1月、岩田豊雄、三島由紀夫、松浦竹夫、賀原夏子らと、グループNLT(新文学座)を結成する2月、長男、新一郎誕生。5、6月『象と簪』が、青年座創立10周年記念公演として再演。演出、戌井市郎。
1965年 昭和40年 38歳

NLT公演舞台稽古で岩田豊雄氏のダメだしを客席で聞く

NLT公演「誘拐」舞台写真

1、2月、松竹歌劇団のために、ミュージカル・プレイ『ホップ、ステップ、ジャンプー春の踊り』を書き下ろす。浅草、国際劇場にて上演。3月、グループNLT旗揚げ公演のために『誘拐』を書き下ろす。
1966年 昭和41年 39歳 2月、戯曲『黒鷲団』を「悲劇喜劇」に発表。8月、『絵姿女房』が六本木俳優座劇場で、青年座により上演される。演出、栗山昌良。結城孫三郎・一糸、人形座特別公演、岡本綺堂原作「玉藻前」を脚色。戯曲『宮城野』を「悲劇喜劇」12月号に発表。
1967年 昭和42年 40歳 1月、マルセル・パニョル作「マリウス」「ファニー」「セザール」の3部作を、ミュージカル・プレイ『ファニー』として脚色、日生劇場にて上演。演出、松浦竹夫、作曲、いずみたく。5月「矢代静一戯曲集・第一巻、第二巻」を白水社より刊行。岸田国士戯曲賞(白水社)審査委員となる。グループNLT退座。以後、どこにも所属せず、フリーとなる。
1968年 昭和43年 41歳

青年座公演「夜明けに消えた」舞台写真

7月、青年座により俳優座劇場にて『蝙蝠』初演。演出、五十嵐康治。9月、同じく青年座により『夜明けに消えた』が、砂防会館ホールで初演。演出、栗山昌良。出演、森塚敏他。
1969年 昭和44年 42歳 1月、四ツ谷、聖イグナチオ教会にて、ヘルマン・ホイヴェルス司祭により洗礼を受ける。代父、遠藤周作。受洗名、アウグスティヌス。3月『驢馬』を「新劇」に発表。11月『天一坊七十番』青年座初演。演出、五十嵐康治。
1970年 昭和45年 43歳

マールイ公演「宮城野」舞台写真

1月、新演劇人クラブ・マールイ演劇サロンの会で、『宮城野』初演。主演、丹阿彌谷津子。演出、出演、金子信雄。4月、同じく『宮城野』青年座初演。主演、東恵美子。4、5月、遠藤周作に誘われ、妻と聖地巡礼のためイスラエルに行く。フランス、イタリア、オーストリアにも遊ぶ。帰国後、「聖地へーこの永遠なる旅」(雑誌「福音手帳」)連載始まる。この頃より、カトリック布教機関番組「心のともしび」に協力し、テレビ、ラジオ出演。劇団四季、日生劇場・子供のためのミュージカル『オズの魔法使い』(バウム原作)を書き下ろし、上演される。演出、宮島春彦。
1971年 昭和46年 44歳

『パレスチナのサボテン』演出中

1月「宮城野」が、新演劇人グループ・マールイ公演として、紀伊国屋ホールで再演される。3月、『パレスチナのサボテン』が、岩田豊雄追悼記念公演の一本として紀伊国屋ホールで上演、主演、芥川比呂志。演出するのは、この作品が最後となる。9月、『写楽考』を、文芸10月号に発表。青年座初演。演出、石沢秀二。西田敏行主演。同月、劇団四季、日生劇場・子供のためのミュージカル『ふたりのロッテ』(ケストナー原作)を書き下ろし、上演される。演出、浅利慶太。
1972年 昭和47年 45歳

青年座公演「写楽考」舞台写真

1月、『写楽考』が、紀伊国屋演劇賞個人賞受賞。2月、戯曲集『夜明けに消えた』を早川書房より刊行。10月、『異聞一寸法師』を、「悲劇喜劇」に発表。
1973年 昭和48年 46歳

「北斎漫画」舞台写真

2月『写楽考』により、第24回読売文学賞受賞。4月、『七本の色鉛筆』文学座公演として初演。7月、『北斎漫画』が、金井彰久制作により、紀伊国屋ホールで初演。演出、栗山昌良、出演、緒形拳、渡辺美佐子他。この年に「例の会」(=霊の会)という、初演。カトリック、プロテスタントの文学者、学者、司祭らで作るカトリック研究会発足、参加する。
1974年 昭和49年 47歳 2月、『おれたちは天使じゃない』(A・ユッサン原作)をミュージカル作品として劇化、西武劇場(渋谷パルコ)で初演。作曲、いずみたく。西村晃、有島一郎ら出演。『山月記』『名人伝』(中島敦原作)を劇化、能、狂言役者の集まり「冥の会」で、7月紀伊国屋ホールにて上演される。演出、観世栄夫、出演、観世寿夫、観世静夫、野村万作、野村万之丞、山岡久乃、関弘子ら。小田島雄志、大河内豪らと[宝塚ファン新御三家]を結成。
1975年 昭和50年 48歳 4月、『悲しき恋泥棒』が、金井彰久制作により、紀伊国屋ホールで初演される。主演、緒形拳。8月、吉田史子企画、金井彰久制作により『淫乱斎英泉』初演。演出、観世栄夫。
1976年 昭和51年 49歳 3月、児童向け物語『船乗り重吉冒険漂流記』を、平凡社より刊行。10月、『漂流の果て』俳優座により初演。演出、島田安行、主演、東野英治郎。
1977年 昭和52年 50歳 1月、「キリスト教文学の世界・全22巻」(主婦の友社)の編集委員に、遠藤周作、三浦朱門、曽野綾子と共になり、リヴィエール、クローデル、ルナール、ワイルダー、ラーゲルレーヴの解説を担当。2月、書き下ろし長編小説『道化と愛は平行線』を新潮社より刊行。4月、河出書房新社より『浮世絵師三部作・「写楽考」「北斎漫画」「淫乱斎英泉」』を刊行。5~7月、紀伊国屋ホールにおいて、金井彰久制作で浮世絵師三部作一挙上演が行われる。主演、西田敏行、緒形拳、津川雅彦。
1978年 昭和53年 51歳 3月、『妖かし』劇団民芸公演として、西武劇場(パルコ)にて初演。演出、渡辺浩子、出演、大滝秀二、米倉斎加年他。同月、「浮世絵師三部作」により、第28回芸術選奨文部大臣賞を受賞。5月、『道化と愛は平行線』文学座により初演。演出、戌井市郎。(同名の小説と、小説『えくぼを忘れるなんて』の二作を劇化したもの。)10月、昭和30年頃より熱狂的ファンであった、プロ野球セ・リーグ、ヤクルト・スワローズが、セ・リーグ、日本シリーズと共に初優勝したため、取材、コメントその他で活躍。
1979年 昭和54年 52歳 7月、『喘ぎさまよう鹿のように』が青年座により、紀伊国屋ホールで初演。演出、栗山昌良。8月、『宮城野』が、野中マリ子プロデュース公演として、渋谷ジャンジャンで上演される。10月、NHK主催、新作落語『伊之の女』発表。三笑亭夢楽師匠により、イイノホールにて公演。同月、『毒婦の父』が俳優座により、サンシャイン劇場にて初演。演出、島田安行、主演、東野英治郎。11月、季刊「歴史と文学」のために、長編小説『浮世絵曼荼羅―北斎の娘』執筆開始。
1980年 昭和55年 53歳 4月、『センチメンタル・ジャーニー―足のある幽霊』劇団民芸公演として、三越劇場で初演。演出、渡辺浩子。11月、いずみたくプロデュース、劇団フォーリーズ公演、ミュージカル『洪水の前』(ジョン・ヴァンドゥルーテン「私はカメラだ」より)、初演。演出、藤田敏雄、作曲、いずみたく。出演、財津一郎。秋川リサ。六本木、アトリエ・フォンテーヌ。この頃、遠藤周作が発起人となった、「日本キリスト教芸術センター」に参加。会長、遠山一行、毎月2回、あらゆるジャンルの文化人、学者などを招いて講義を受け、親交を深める会。
1981年 昭和56年 54歳 2月、菊田一夫作、宝塚歌劇「霧深きエルベのほとり」を元に、熱烈な宝塚ファンの要望に応え、ミュージカル『カール物語』として書き下ろし、博品館劇場で上演。演出、増見利清、出演、内重のぼる、益田喜頓他。3月、米国、カリフォルニア州ロサンゼルス、劇団East West Playersにより、[Hokusai Sketch Book](北斎漫画)が上演されるため、渡米。演出、主演はマコ岩松。前年出版された英訳「北斎漫画」を、劇作家デール・ワッサーマン(「カッコーの巣を越えて」などの作者)が読み、マコ、岩松に上演を薦めたもの。ストックトン。パシフィック大学、日本語日本文学科のテッド・タカヤ氏(「北斎漫画」翻訳者)の招待により、同大学で講演。5月、東宝制作、『マキシムから来た女』を日生劇場で上演。原作、ジョルジュ・フェドーを脚色する。演出、栗山昌良、出演、坂上二郎、上月晃。7月、テレビ朝日「題名のない音楽会」[矢代静一・わが青春の歌]に、次女、毬谷友子、宝塚OG数名と出演。シャンソン、宝塚の歌を満喫する。司会、黛敏郎。8月、ミュージカル『洪水の前』紀伊国屋ホールにて、バージョンアップして再演。9月、松竹映画「北斎漫画」公開。監督、脚本、新藤兼人。緒形拳、樋口可南子ら出演。
1982年 昭和57年 55歳 4月、文学座公演『黄昏のメルヘン』初演。演出、加藤新吉。紀伊国屋ホール。11月、サンシャイン劇場において、松竹、青年座提携公演『江戸のろくでなし』初演。演出、鈴木完一郎、主役の浮世絵師、月岡芳年に西田敏行。
1983年 昭和58年 56歳 4月、新橋演舞場新装開場一周年記念松竹公演、渡辺淳一原作『化粧』を脚色。演出、増見利清、出演、三田佳子、水谷良重。6月、日本舞踊協会主催、創作舞踊作品公演、泉鏡花原作「海神別荘」を舞踊脚本化し、国立劇場小劇場にて上演される。7月、劇団、俳優座に、ソフトサウンド・ミュージカルとして、アルフレッド・ミュッセの原作を劇化した『たわむれになすな恋』書き下ろし、サンシャイン劇場で上演。音楽、池辺晋一郎、演出、増見利清。7月、NHKテレビ番組、「YOU」司会、糸井重里「ぼくらの戦争タイムカプセル」にゲスト出演。8月、俳優座劇場にて、アキコ・カンダ、ダンスリサイタル『妖かし』の脚本。演出、戸板康二。10月、青年座スタジオ公演、5人の女優による『宮城野』上演。
1984年 昭和59年 57歳 5月、文学座公演『10年目の密会』初演。演出、加藤新吉、紀伊国屋ホール。11月、早稲田大学演劇専修公開講座「宝塚」に講師として参加。鼎談「我が宝塚」榛名由梨、遥くららと共に語る。
1985年 昭和60年 58歳 5月、松竹新橋演舞場公演、岩下俊作原作『無法松の一生』を脚色。演出、増見利清、出演、北大路欣也、坂東玉三郎他。11月、青年座公演、喜劇『弥次喜多』サンシャイン劇場にて初演。演出、高木達、出演、西田敏行、大塚国夫他。回想記「旗手たちの青春」(新潮社)刊行。
1986年 昭和61年 59歳 『含羞の人−私の太宰治』を上梓したため、太宰関連の取材、執筆多し。12月、文学座公演『夢夢しい女達』俳優座劇場にて初演。演出、加藤新吉、出演、平淑恵、渡辺徹他。
1987年 昭和62年 60歳 3月、松竹新橋演舞場公演、『戦国に燃ゆ』山岡荘八原作「織田信長」より。演出、増見利清、出演、北大路欣也、太地喜和子他。6月、‘87鎌倉レクチャー「太宰治と私」講演。鎌倉市中央公民館ホール。10月、芥川比呂志7回忌偲ぶ会、企画。12月、日ソ演劇シンポジウムに招かれ、モスクワに1週間滞在。チェーホフ作「かもめ」「叔父ワーニャ」などを観劇。
1988年 昭和64年 61歳 1月、銀座セゾン劇場で『有頂天時代』−モボ、モガたちの愛と夢に捧げる純情歌集−上演。演出、栗山昌良、音楽、三枝成章、出演、あおい輝彦、汀夏子他。3〜6月、米国、ニューヨーク、マンハッタンに妻と滞在。グランドセントラル駅近く、レキシントンアベニューのアパートで生活する。ブロードウエイの、演劇、ミュージカル、メトロポリタンオペラなどを楽しむ。6月には『北斎漫画』がマサチューセッツ、カレッジ・オブ・アート、プレイライツ・プラットホーム主催でアメリカ人俳優によって、リーディング、作品研究が行われ、参加する。12月、米国、ニューヨーク、リー・ストラスバーグ劇場で『宮城野』が、日本人、アメリカ人の俳優により上演される。
1989年 昭和65年 62歳 4月、青年座公演『写楽考』紀伊国屋ホールにて、上演。演出、石沢秀二、主演、竹中直人。8月、岸田國士全集刊行始まる。編纂者の一人となる。9月、父、乙吉死去。4月の青年座公演『写楽考』が、スペイン公演行う。フェスティバル・ド・オトーニョ参加。マドリード、ヴィトリア、サラゴサ、バルセローナの4都市。
1990年 平成2年 63歳 3月、NHKテレビ、こころの時代「らせんを登る」ゲスト出演。4月、平成2年度紫綬褒章授与される。7月、東宝現代劇75人の会が『淫乱斎英泉』を、深川江戸資料館小劇場にて上演。演出、丸山博。12月、日本中国文化交流協会代表団として、團伊久磨団長ら7名と共に、初めて中国訪問。各地で各界の文化人と交流する。
1991年 平成3年 64歳 5月、文学座公演『桃花春−戦の中の青春』初演。演出、加藤新吉。紀伊国屋ホール。
1992年 平成4年 65歳 7月、青年座『宮城野』ロシア、ハバロフスク公演。主演、東恵美子。9月、地人会公演[3人の作家による書き下ろし一人芝居]の1本として『弥々』初演。演出、石沢秀二、出演、毬谷友子。10月、ヤクルト・スワローズ、セ・リーグ優勝。14年前の初優勝以来の盛り上がり。
1993年 平成5年 66歳 1月、ロシア、ハバロフスクで『北斎漫画』が、劇団チューズ(青年劇場)により上演される。2月、母園子死去。4月、日本中国文化交流協会代表団の一員として、再び訪中。日本画家、高山辰雄常任理事団長とは以後、親しく交流が続き、精神的な師と仰ぐ。西安の石刻彫刻など、訪問先々での高山の丁寧な解説に感動する。5月、ニュー・オペラ・プロダクション第3回公演、原作、小泉八雲『耳なし芳一』をオペラ台本化。作曲、指揮、池辺晋一郎、演出、杉理一。新宿文化センター大ホールで初演。7月、地人会公演、俳優座劇場にて『絵姿女房』『弥々』上演。演出、石沢秀二、出演、毬谷友子、小林勝也ら。
1994年 平成6年 67歳 長編小説、フランシスコ・ザビエル伝を執筆開始。脱稿する97年までの間、取材のためザビエルにゆかりのある場所を(イタリア、ポルトガル、インド、中国など)毎年、数週間訪ねる。
1995年 平成7年 68歳 2月、TOKYO演劇フェアでミュージカル『洪水の前』上演される。制作オールスタッフ、東京芸術劇場。 4月、青年座公演『つくづく赤い風車』演出、鈴木完一郎、主演、西田敏行。池袋西口特設大テント[一茶心の劇場]にて上演。11月、名古屋アクターズ・フェスティバル、ひとり芝居の演劇祭で『弥々』上演。愛知県芸術劇場小ホール。
1996年 平成8年 69歳 2月、長男新一郎に長男誕生、初孫なり。4月、リトアニア、首都ビリニュス、アカデミー・ドラマ・シティにおいて、リトアニア版『弥々』上演される。主演、エグレ・ミクリョニーテ。7月、『生きた、愛した―フランシスコザビエルの冒険』が、角川春樹事務所より出版される。9月NHK教育テレビ、ステージ・ドア「劇作家矢代静一と、女優毬谷友子に聞く」出演。聞き手、北村想。同月末、40年以上の付き合いのあった、受洗時の代父でもあった遠藤周作、死去。
1997年 平成9年 70歳 1月、劇作家協会会報「とがき」に[矢代静一「劇作の力」インタビュー]掲載。インタビュアー、渡辺えり子。5月、日本文化界訪中団、団長、高山辰雄代表理事他9名と共に、中国訪問。8月、軽井沢、ホテル・ブレストンコートにおける「遠藤周作しのぶ会」の発起人に北杜夫と共になり、会の司会を担当する。10月、東京国際舞台芸術フェスティバル主催において、『弥々』日本、リトアニア版同時上演。11月、戦後一幕物傑作選、北條純プロデュース公演『城館』上演。演出、宮永雄平、東京芸術劇場小ホール。同月、勲四等旭日小綬章叙勲。12月、NHK衛星放送「80年代演劇大全集」で『宮城野』放送に伴う、作者インタビューを収録。インタビュアー、扇田昭彦。放送は、翌年3月。(2001年、小学館「劇談―現代演劇の潮流」に、再編集され収録。)
1998年 平成10年 1月11日夕方、数日前より風邪ぎみであったが、心不全により自宅で倒れる。広尾病院に運ばれる。帰天。
1月14日、四ツ谷、聖イグナチオ教会にて、葬儀、告別式
*上演記録に関しては、初演を記載。再演の場合は、プロダクションに変更などがあった、主だったものとする。
『』内は戯曲。小説作品、演出作品は「」。